水晶のようなガラスの海と『サルバトール・ムンディ』

レオナルド・ダ・ヴィンチ『サルバトール・ムンディ』(Salvator :救世主、Mundi:世界の)が201711月のクリスティーズのオークションで美術品として史上最高額で落札されたことで話題になりましたが、この絵を見ていると、不思議なことにいくつか気づくと思います。

 

パッとみて気づくのは、顔と手元がまるで遠近法を用いたようになっています。顔まわりは、朦朧としていて、手ははっきりしています。『ラ・ジョコンダ』と同時代に描かれたと言われいるので、スフマート技法を使用した作品。レオナルド・ダ・ヴィンチは、自然界には輪郭線など存在しないことを発見し、全て色彩とトーンとグラデーションのみによって描写する技法を用いました。『サルバトール・ムンディ』は、顔から胸元にかけては丁寧なスフマート技法が用いられています。交差した胸元の装身具から先、肩から手にかけては、顔まわりのようなスフマート技法はあまり用いられず、割と陰影がはっきりと描かれています。肩から手にかけて少しアンバランスであることからも、(修復や加筆等による可能性もありますが)おそらく弟子などとコラボレーションしたものではないかと素人目には映りました。

 

更に見ていくと、一つの顔の中に雌雄が溶け合っているように見えます。向かって右側の顔はモナリザや聖アンナに見られるような謎めいて優美な女性の顔、左側は『最後の晩餐』などに見られるキリストの顔が描かれています。胸元も少しふっくらしていて中性的です。彼が手に持っているのは、屈折率から水晶玉でもガラス玉でもないことがわかります。ここまで見て、タロットの「世界」を思い出しました。

 

ヨハネの黙示録の中で、ヨハネが神に導かれて天上界に昇り「御座にいますかた」の前で、水晶に似たガラスの海を見ます。そこには、四つの生き物がいて、一面に目がついています。第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶ鷲のようでした。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼も周りも内側も目で満ちていました。タロットの「世界」はこの天上界の描写を示唆して、この四つの生きものは四人の福音書記者にも対応します。このような、絵画におけるキリスト教の記号は、タロットカード全体を覆っています。

 

『サルバトール・ムンディ』が持っているのは、この「水晶のようなガラスの海」の雛形に見えます。また、左手に宝珠や球体を持っているのはタロットの「皇帝」に見られるように、古代から支配者「王」を表します。彼の右手は「法王」にもある祝福の形をしています。青と赤の衣服や、交差した装身具はレムニスケートに通じ、ここにも記号が散りばめられています。私は自分の占いのことをタロットに尋ねると「皇帝」がよく出てきます。皇帝は霊性も表すと思っています。

 

1460年にミラノ公、フランチェスコ・スフォルツァが画家ボニファキオ・ベンボに命じて作らせたとされる現存する最古のタロット「ビスコンティ・スフォルツァ版」

レオナルド・ダ・ヴィンチは149698年にかけて、スフォルツァ城の「アッセの間」の装飾を行なっています。なんとなく、時代が交錯しているのが面白いです。タロットが作られて飾られているところを見ても、絵解き遊びが盛んだったのでしょう。

 

レオナルド・ダ・ヴィンチは、行政の依頼を受けて都市計画に着手したことがあります。ルネサンス期のイタリアは疫病の頻発に苦しめられていたため、建物の高層化や人口の集中緩和とともに彼は水に着目しました。運河計画によって都市の病を治療するという発想は、のちの「人体=宇宙」の思想を予見していると思います。

 

レオナルドは婚外子として生まれて、祖父母と叔父に育てられたました。自然に恵まれて自由に育ちますが、満足に初等教育を受けられず、ラテン語の理解に苦しみました。左利きも矯正されませんでした。しかし、これが彼の自由な思想を育んだとも言えます。山の上から貝殻の化石が出土した時に、ノアの大洪水がこれで証明されたと人々が喜ぶ中、レオナルド・ダ・ヴィンチは山に足を運んで、様々な層から出土する貝殻と、一度きりの大洪水の逸話に矛盾を見つけ、聖書の逸話を否定しました。

 

レオナルド・ダ・ヴィンチは月が太陽の光を反射していることも発見していました。

私はこの絵を見た時、ぼんやりと空間に出現した人物が持っている球体が宇宙に見えました。聖書の逸話を否定したレオナルド・ダ・ヴィンチの祝福のサインは、寧ろ『洗礼者ヨハネ』に見られるようなレオナルド作品に頻出する天を指差す人に通じるものを感じます。『洗礼者ヨハネ』の場合は、自分より後からくるキリストが救い主であることを明示していますが「我も宇宙也」と彼の思想を語っているようにも感じられてなりません。